宇都宮 鶴舞塚古墳が先にあったんじゃないですかねぇ

ゲゲが勝手に思ってるだけなのですが

日本武尊様が鶴舞塚古墳の上に飛んでる白鳥を矢で当てた

という伝承があるのだから、

その時、笹塚古墳はなかったんじゃないか

と ふと思いました。

 

ゲゲ、思うのですが

鶴舞塚古墳って 結構 古いんじゃないか

って 思うんですよ(二度言った!)

 

豊城入彦命様の頃の円墳なんじゃないかなあって。。。

 

場所も 北原東古墳から 結構 まっすぐ東って感じだし

 

もともと 北原東古墳にいた方達は 先住民族で

あの古墳の主様は 立派な方墳に眠ってらっしゃるから

おそらく 豊城入彦命様達の東征を歓迎した地元の方なんじゃなかろうか。。。

 

って 思ったりしました

 

最初は 日本武尊様の東征を歓迎したのが

北原東古墳の主様一族かとも思ったのですが

やっぱり それ以前に 豊城入彦命様達を歓迎してくださった

と思う方が 自然かもです

 

方墳は ゲゲの考えでは

出雲につながる 縄文時代からの部族の方達のお墓って

気がするんです

 

で、方墳ですが

次の段階では

若干 ヤマトの古墳を取り入れて

前方後方墳に変化して

その次には 前方後円墳になって。。。

 

って 発展していく感じがします

 

円墳っていうのは

ヤマトの人たちが 初期 作ったものだと思うんです

 

前方後円墳は とても力のある皇族のもので

(箸墓とか)

作るにも 図面がないととても大変なので

初期の頃は 円墳が多かった気がするのです

 

鶴舞塚古墳。。。

 

東山道を通って 北へ 戦にいく日本武尊様達の軍勢が見たら

田んぼの中に ぽつんとある

とても立派な円墳だったでしょうね。。

 

眠ってたお方は 豊城入彦命様の現地の奥様か

大和から一緒に来た 豊城入彦命様の縁者か・・・

 

初期の古墳に眠る方なので

相当 力のある方だったと思います

東谷地区を開いた部族の初代の王か 奥様か。。。

豊城入彦命様の現地の子どもさん?

 

先日 イメージが下りてきたので

絵を描くのが 楽しみです!

 

古代の国津神のお方の古墳が

方墳から 次第に 前方後円墳へ発展していったのかも

と思うのは

 

前方後円墳の方が そっちの方面で^^;

いろいろ優れているから

と 思うからです

 

霊能者の玲子さんと 視っちゃんの言葉を借りれば

呪詛と同じように

 

こうしたら どうだろう もっと効くよ。。

とか

そっちの方面で 試行錯誤して

より 一番効くのが 前方後円墳だったのではないか

と 思ったりなんだり。。。w

 

そういえば

最強の古墳って どこなんでしょうね。。。

 

天智天皇の古墳ですかね。。。

子孫が栄えてる!

100年後に復活してる!

強そう!

 

持統天皇と天武天皇のお墓も強そう。。。^^;

夕方行ったら なんか 怖かった。。

高松塚古墳も。。。

 

 

栃木県最古の古墳って どこですか?2019 令和元年の素朴な疑問

ふと思いついて ネットで調べているのですが

栃木県 最古 古墳

で 出てくるのは

 

最古級の古墳

 

という文字がほとんどです。。。

 

???

 

私は 勝手に

宇都宮の笹塚古墳が最古だと思っていたのですが

見事に 違いました

下野市の三王塚古墳が 最古級だそうです!

 

っていうか

古墳の築造時期って

専門家でも意見が分かれるし

発掘してない古墳は

すでに発掘済みの古墳と似てるからどうのとか

割と 基準があってないような感じで (^◇^;)

 

ネットで調べていると

え?

この古墳の築造年代。。。

資料によって 全然違う。。

一体全体 どれが 本当なの~~~~~~~~!?

 

と PC画面を前にして 声を大にして叫んでいるゲゲがいます

 

で 近頃 手持ちの資料を見てみよう~と

読み漁っているのですが

そこで

 

???

 

と ノーマークの古墳に出会いました。。

 

北原東古墳 です。。。

見事な方墳です! 四角!!

 

住所は宇都宮市茂原町 (すぐ隣りは上三川町)です

地図で調べたら 茂原クリーンセンターの近くで

新幹線のすぐ横でした(ざっくり)

 

自転車で さんざ すぐ近くの上三川の官衙遺跡跡とかふらふらしてたのに

全く 気づきませんでした。。

 

 

この北原東古墳

私の持ってる資料では 3世紀の築造となっているんです!

え?!

200年代?!

卑弥呼様が亡くなった年代と 同じ?

古墳時代前期?!

 

資料 企画展 宇都宮の成立を探るⅠ

豪族の出現と居館

発行日 平成30年2月10日(去年!新しい!)

発行   宇都宮教育委員会

 

そして もう2つ ノーマークの古墳を発見しました!

宇都宮市雀宮町の 牛塚東遺跡で確認された

古墳時代前期の方墳2基!!

 

え~~~???

すぐ近くの牛塚古墳より 古いの???!!!

古墳時代前期?!!

資料 第12回企画展

古墳時代の幕開け

━古鬼怒川流域を中心に━

発行日 平成23年2月11日(8年前)

発行   宇都宮市教育委員会

栃木県壬生町の車塚古墳って もしかしたら 下毛野古麻呂の古墳じゃないですか?

前回の記事と ほぼ 同時期に 降りてきましたw 先日w

 

私は ずっと なぜ 壬生の車塚古墳には 「車」という漢字がつくのか?

と 思っていました

 

円墳なので

上から見ると丸いから

大八車の車輪に似てるということで?。。。

 

とか 勝手に思っていたのですが。。。。

 

ですが

今と違って 昔って

あの古墳を 上から見おろす場所なんて 近くにあるだろうか? いや ない。。。

って 気もしたんです。。。

 

先日

 

あれ?

って 思いました

 

古墳の名前って

その古墳が作られた当初は

絶対

 

あれは ○○○様の古墳だよ

 

って 呼ばれていたと思うんです

 

ですが 長い年月の間に それは 忘れられ。。

○○○の発音も だんだん 変わってきて

より 言いやすくなっていった。。。

って 思うんです

 

 

くるま。。。。

 

昔は くるま って 呼んでいたんだろうか。。。

と 素朴に疑問に思いました。。

もしかして 名前 変わっていったんじゃないだろうか。。。

 

古代の日本語の発音には 詳しくないのですが

今とはきっと違うと思うので 多分 鼻濁音がたくさんあると想像で。。。

 

くるま。。。

くぅま。。。

くま。。。

くぉま。。。

 

ん???

 

こま。。。?

 

もしかして。。。

 

こまろ?。。。。。

 

 

。。。。

 

こまろ

が 段々言いやすく変化して

(間に マ行があるのは 発音しづらい)

 

ころま

 

くるま

に 変わっていった????!!!!!

 

 

いや もしかして

ほんとに あの古墳

下毛野古麻呂様の 古墳じゃ。。。。

カタカタカタ(((;゚;Д;゚;)))カタカタカタ

 

持統天皇から ずっと 奈良の都の政治に携わっていた

超 大物政治家!!

下毛野古麻呂様!

 

だって 古墳時代終末期の国内最大級の大型円墳だっていうし。。。

国の指定になってるし

調査すればするほど なんか すごいし。。。

石室 ものすごい立派だし。。。

 

すぐ隣りには 前回降りてきた あの 牛塚古墳 があるし!

近くには 立派な愛宕塚古墳 あるし!

 

築造年代は

牛塚古墳

愛宕塚古墳

車塚古墳

 

って ゲゲは思います!

牛塚古墳は 愛宕塚古墳より古いと思う!

 

場所も

牛塚古墳のお隣が 車塚古墳なので

高貴なご先祖様のお隣に 子孫が眠るのも

あり! だと思います

 

残された遺族にとって 箔がつく というか

世間に 天皇家の血をひくという血筋の良さを誇示できる!

 

車塚古墳は 盗掘されていて 石室が開口しています

江戸時代には すでに開口していたようです

 

でも 古墳は削平されずに 残っているんです

そして 開口してる石室も 妙になんか迫力があって 逆に怖い?んです

道路をにらみつけてるというか。。

力がみなぎっているというか。。

まだまだ現役というか。。。。(@Д@;)。。。。

 

これは こんな立派な石室を持った古墳なんだから

削平するんじゃないぞ!

隣りの牛塚古墳も削平するな!

 

って 主張してる感じがします。。。

怖くて 古墳を崩そうなんて とてもじゃないけど

微塵も思っちゃいけないような迫力です。。。

 

私的には

筑波山の方を向いてパワーを受けてるというか。。。

そんな感じがします

 

南から侵略者が来たら すぐに ばれてしまいそう。。

そして 何かが発動する。。。

(ToT)/~~~

 

って いつも思います

 

目を閉じると

開口した石室の横左右に 武装して槍を持った兵士を感じるんです

 

近くの愛宕塚古墳も 盾持ち人埴輪 が出たっていうし

あの辺り 何か こう 術が効いてる気がします~。。。

 

下野市の 巨大な前方後円墳

琵琶塚古墳 摩利支天塚古墳は 下毛野古麻呂様のご先祖様だと思います

お父さん お母さんの古墳って 思ったけど

ちょっと 時代が合わないかも。。。

 

あの場所は そのご先祖様に譲って

自分は 壬生で。。。

っていう謙虚さというか 優しさも すごく感じられたりして。。

 

古墳の回りに 円筒埴輪ではなく 須恵器置かれていたそうで

もしかしたら 簡素化?

とか思ったりしました

栃木県壬生町の牛塚古墳って もしかしたら すごいお方の古墳なんじゃないですか?!

ほんと 気が付きませんでした。。。

。。。

 

ゲゲは 普通に30年以上

壬生の 牛塚古墳を

普通に 牛 って感じで 漢字を見てました(日本語 変w)

 

ですが 先日 気がつきました

あれは

動物の牛ではない!

人間の うし だ!!!

 

人間の

大人(うし)の方の うし !!

 

大人(うし)

偉大なお方! 首長!

 

宇都宮市雀宮町の 牛塚古墳は

豊城入彦命様のご子孫の 御諸別王か 奈良別王か どちらかの古墳!

と 地元では言われているそうなので

(実際 すごい鏡が発掘されて 東京国立博物館に展示されている)

 

壬生の牛塚古墳も 絶対 もう御一方 どちらかのお方!

 

と 先日 突然 降りてきました w

 

そうなのです。。

壬生の牛塚古墳のお隣には

ものすごい立派な後期の円墳 車塚古墳

そして 近くには あの 大きい前方後円墳 愛宕塚古墳

という

ものすごい古墳が二つもあるんだから

壬生の牛塚は

絶対 大人(うし)塚で

ものすごく高貴な 天皇家の血を引いたお方が眠ってるに違いない!

と 思うんです!

 

私的には 御諸別王 かな?と 思います

壬生の淀橋の近くの磐裂根裂神社近辺には

崇神天皇の息子さん(豊城入彦命)が館を構えた

という伝承があるそうで

(お菓子屋さんの包み紙に書いてあった)

 

だとしたら 東国に赴任した 御諸別王は まず 壬生に住んで

壬生のお墓に眠ったのではないか

って 気がするんです

 

次に 派遣された 奈良別王は

壬生からまっすぐ東の 雀宮に 居を構えて

そちらの 古墳で 眠っている という気がします

 

 

2018年5月6日㈰下野チャリ散歩 不思議な感じのサイクリング日和

この日は いつもより ちょっと遠くへ足を伸ばそうと

宇都宮の自宅を出発して

壬生町の磐裂根裂神社でご朱印を頂いてから

いつもなら車で行く 壬生町の車塚古墳へ

愛チャリでのんびり行きました

 

そして その次は すぐ近くの愛宕塚古墳へ行きました

震災直後 一度 訪れた古墳ですが

この日は その時と 雰囲気がガラリと変わっていて

あたたかく 優しく美しく とてもすてきな場所になっていたので

私は 嬉しくて キャーキャー言いながら しばし 滞在させて頂きました

 

それから

さあ 上三川町の白鷺神社へ行きましょうか~

と 初めての道を選んで 出発しました

 

私は 方角を たとえば 南東だにゃ と定めたなら

そこへ向かって 知らない田舎道(失礼)を チャリでゆるゆる適当に行くのが好きで

今回も そうしてみました(車の場合は ナビでちゃんと行くのが好き)

とりあえず 南南東に向かって 進んでみたのです

 

よく晴れた気持ちの良いお天気

日差しを浴びながら 田んぼや畑の間の道を

1人で のんびり 進んでいく 気持ち良さ♪

 

そんなこんなで楽しく自転車をこいでいた私は

30分後

 

あれ? ここって 全く知らない道だ。。。^^;

遠くに見える景色も全然違う。。。

っていうか 100mほど離れたところに立ってる木々が邪魔して

遠くの山が見えない。。。(^◇^;)

 

と 気づきました。。

 

えぇ~ ???

いつもの道はどこへ行ったの~~???

 

と 不安を感じながら ひたすら 南南東へ。。。

 

ここって。。。 もしかして あの世じゃないよね?。。。

誰もいないし。。。

田んぼも 乾いた泥だらけで 水入ってないし。。。

私 別次元に迷い込んだんじゃないよね。。。

私 生きてるよね? 死んでないよね?

何 この 雰囲気。。空気。。。閉塞感。。。

広々とした農村地帯なのに。。。

 

と 思ってしまったほどの 不思議な不思議な空気感のある場所でした

 

やっと ちょっと広い道路に出て

看板に小さな観光地図が貼ってあり 見てみたら

 

え~~??? ここって 石橋なの??? 壬生じゃないの?

 

と びっくりしました

 

時間的&体力的に 上三川へ行くのを 即座に諦めて

じゃあ 地図に書いてある孝謙称徳神社へ行こう~ と 決めました

 

この神社は 下野に左遷された道鏡関係の孝謙天皇を祀る神社で

以前 一度 訪れたことがあります

 

なので

簡単にたどりつける! と 思って

地図をきちんと確認せず ふらふら出発してチャリを走らせたのですが。。。

 

気付いたら 全然 たどり着けず。。。

 

え ここ どこ?

あれ? 国道4号線だ。。。

 

という 若干 ほぼ完全な迷子状態に。。。w

4号線を北上すれば 宇都宮へ戻れるとわかってるので

じゃあ 意地でも戻らない! みたいな。。。^^;

 

そんなこんなで 意地を張り続け 孝謙天皇神社を探して走り続け

途中の ステキな神社で休憩して おにぎり食べたり

自分 全然 焦ってないもん~~!!!

と 気取っていたのですが ^^;

 

気付いたら 小金井駅前 に出て。。。

 

さすがに 私の進んでる方向は とんでもない方向だ。。

このままでは 小山へ出て東京へ行くことになってしまう。。。

 

と 気付いて 宇都宮方面へ 引き返すことにしました ^^;;;;

もう 孝謙天皇神社へ行くのは あきらめましたw

BS18時の西郷どん までには 吉野家の牛丼買って 自宅に着きたいし!w

 

よし じゃあ 4号線を通らないで 今度は 北北西へ向かって

斜めに 知らない道!農道!を行くぞ~~~。。。

近道じゃあ~~~~~!!!!

 

と 1人で 気勢をあげて 自転車をこぎだしました

気付いたら また

全く知らない未知の道を走ってる ことに気づきました。。。 ^^;

 

え~~~ ここどこ~~~???

こんな道 あったの~~~???(失礼)

不安過ぎる~~~ ><

 

川。。。

箕輪城跡。。。

いくつもの神社。。。

 

自転車をこいでいると 要所 要所に 古そうな威厳のある神社が建っていました

江戸 明治で言えば 村の神社でしょうか

今も大切にされているようで 掃除が行き届いて とてもきれいでした

 

落ち着いて よくよく 周囲を見渡してみれば

田んぼは 水を入れてる途中だったり

田植えが済んでるところ 済んでないところがある と 判明しました♪

農家の方達が 今まさに田植え作業にいそしんでる田んぼもありました

 

で のどかな風景を眺めながら

不安を紛らわせ 平気な顔をして自転車をこいでいた私ですが

内心 ものすごい 不思議な感じを味わっていました

知らない場所 というせいもあるでしょうが

父母の生家が農村地帯だったので

農村の風景には慣れてるつもりでしたのに。。。

 

戦国時代 。。。

 

という 感じが 妙に伝わってきて。。。

不思議な気持ちいっぱいになりました

 

いつもは 古墳やら遺跡やらで 古代の感覚を感じるのに

今回は 戦国時代?・・・

 

箕輪城跡を 遠くから 見たからかなあ。。。

 

この道のせいかなあ。。。

普通の 農道だけど。。。

不思議だなあ。。。

 

不思議 不思議 と 思いつつ チャリをこいで

壬生町に入り 線路の踏切を渡ったら。。。

 

 

あれ?

 

狐につままれた感いっぱいになりました。。

 

知らない道と思い やみくもになって 走ってきたのに

気付いたら 朝 お別れした 愛宕塚古墳の前に出たのです。。。

 

 

?????

えぇ~~~ そうなの?

この道 そうなの???

 

もう~~ 一人つっこみの嵐でした

適当に走ってきたのに なぜか また 振り出しに戻されたみたいな。。。

 

愛宕塚古墳にお礼を言って 宇都宮へ向けて 北上しました

途中 吉野家で牛丼買って w

無事 18時前に 自宅へ着きました

 

家で 見てみたら 3つ牛丼を買ったつもりが 二つは 豚丼でした ^^;

狐につままれとる~~ >< 単に 私の発注ミス?

 

 

夜 私の通ったルートを 地図と栃木神社誌 で 確認しました

孝謙称徳神社を目指して走っていたはずでしたが

私は 北へ行くべきところを 南へ向かって走っていたのでした。。

どうりで たどりつけないはず。。。><

 

不思議な空気に満ちていた道は

下野市(旧 国分寺町)箕輪 橋本

壬生町藤井 という場所を通る道でした。。

戦国時代 その道沿いに城があったのだそうです(おぉ~~~!!!)

 

そして 道中いくつも見た神社を 地図で住所を割り出して調べてみたら

一つ  豊城入彦命様の名前が由緒来歴に出てくる神社があったのです!!

今までノーマークの 初めて知った神社だったので びっくりしました!!!

 

そこは 私は気付かずに 通り過ぎていた と 判明しました

 

うが~~~!!!

なんて ミステリアスな土地&道なんだぁ~~~!!!

きっと 戦国時代以前の 古代へもつながっている気がする~~~!!!

 

地図で見たら 近くには 国分寺跡 や 古代の国府跡もあるという

うわー ここって 軍事上ものすごい重要な処なんだろなあ。。。

という場所でした

 

不思議感と不安感いっぱいで通った道でしたが

下野の歴史探索に 新たな重要ルートを発見できた(昔からあったけど^^;)喜びで

いっぱいです ♥

未知の世界へ足を踏み入れて

ニューワールドが目の前に開けたような気分~~~~

大げさ~~~ヽ(^。^)ノ

八角墳の謎 中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足による蘇我氏への対抗呪術

大型古墳の終末期に 八角形の古墳が出現します

今までは

進化したんだね~

と 科学の進歩みたいに軽く考えていましたが

先日

もしかしたら 八角形という形は

天智天皇サイドが 蘇我氏に対抗しようと取り入れた呪術なのかも!

と 気付きました ( ̄□ ̄;)!! ∑( ̄□ ̄ノ)ノ

 

最初に登場した八角形の古墳は 舒明天皇陵だそうです

おそらく

次の天皇であり妻の皇極天皇と 息子である中大兄皇子が

神事・祭祀のエキスパート 中臣鎌足に相談し

蘇我氏対策& 自分達の子孫繁栄に効果があるようにと

八角形の形を取り入れたように思います

 

当時の蘇我氏は 蘇我蝦夷の時代で

とても繁栄していたそうですが

私が思うに それは吉相の土地に造られたお墓効果だと思います

 

蘇我家の馬子(蝦夷の父)の墓と伝わっている石舞台古墳を訪れた時に感じましたが

そこは とても気持ちが良い場所でした

いるだけで 体中に良いパワーをもらえるような

不思議な何かを感じられました

 

墓というのは

古代中国の風水思想で

良い土地に作ると子孫が繁栄するという

最強のパワースポットだそうです

 

皇極天皇 中大兄皇子 中臣鎌足たちは

蘇我氏の勢いがこのまま続けば

天皇家を上回る力を持つ恐れがある

と脅威を感じ かなりの危機感を抱いていたと思います

 

蘇我氏が代々受け継いできた仏教パワーも

恐れの対象となったのかも知れません

(参考文献 HONKOWA 寺尾玲子の真 闇の検証

 

そこで 古墳を八角形にして

これ以上蘇我氏の力が大きくなるのを阻止して

自分達の子孫が繁栄するようにと

呪術を施したのだと思います

 

おそらく 舒明天皇の古墳を造る段階で

中大兄皇子 中臣鎌足は

蘇我宗家を滅ぼす!

蘇我蝦夷・入鹿親子を倒す!

と決めていたのではないでしょうか。。

そんな気がします

 

そして 八角形の古墳の効果か

乙巳の変で 蘇我宗家が滅びました

 

その後 皇極天皇から孝徳天皇に代わり

孝徳天皇の後 皇極天皇が重祚して斉明天皇となりました

 

斉明天皇が亡くなった後 中大兄皇子が天智天皇となりました

中臣鎌足が世を去り

その後 天智天皇も 亡くなりました

 

天智天皇の古墳は

天皇位を継承した息子の大友皇子が造営したのでしょうが

八角形だそうです

 

そして 壬申の乱が起こり

天智天皇の弟 大海人皇子が 大友皇子から政権を奪い

天皇となりました

 

その後 故中臣鎌足の妻 鏡女王が亡くなり

墓は 舒明天皇陵のすぐ隣りに造られました

 

親子でもないのになぜ?と謎なのですが

(あるいは血縁関係があったのか)

もしかしたら

舒明天皇陵の八角形のパワーを持続させるために

鎌足の関係する談山神社からの中継地点ということで

そこの場所に造ることにしたのかもしれません

 

鏡女王は もともとは 天智天皇の妻でしたから

舒明天皇は 元夫の父ということになるので

多少の縁はあるわけです

 

鎌足亡きあと 息子の藤原不比等が

天皇家の発展を祈願しつつも

同時に

自分達藤原氏の勢力を伸ばすために

何かこう仕掛けているのではないかと 思います

 

大海人皇子が天皇となった後 中臣鎌足の息子 不比等が

天武天皇(大海人皇子)・持統天皇(うのの皇女さらら)に

重用されて ものすごい力を持つようになります

 

そして 天武天皇が亡くなると

八角形の古墳に埋葬されます

 

これは 舒明天皇~天智天皇の古墳の形を取り入れて

自分達の子孫を繁栄させるために

八角形を選んだのだと思います

 

天智天皇から弘文天皇(大友皇子)に伝わった天皇家独自の視えない何かが

天武天皇側には伝わらなかった

(HONKOWA 寺尾玲子の真 闇の検証)

ため

古墳を八角形にして 呪術力を高めたのかもしれません

 

天智天皇の息子 弘文天皇から

皇位は 天武天皇に移りましたが

それも 約100年で 称徳天皇の薨去により終わりました

 

天武天皇・持統天皇の八角形の古墳の効果は

天皇が代々 代わっていく中

途中で切れてしまったのかもしれません

 

もしかしたら

天智天皇が舒明天皇の古墳を造った時のような

強い想いと呪術力が

天武系の天皇たちが代々子孫に伝えていった呪術に勝ったのかもしれません

 

あるいは やはり 政権を奪った側として

天皇位を続けていける視えない何かが足りなかったのかもです

 

天智天皇 死後約100年後

天智天皇の孫 白壁王が光仁天皇となり

天智系が復活しました

 

そして 現在

天皇家も 藤原家も 見事に存続しています

古墳って 先人たちがかけた呪術?で

つくづく 計り知れない謎があると思います

 

そして やはり

天智天皇と中臣鎌足のお二人は

ただものではない!!!

と ひしひしと想うのであります

ガクガク(((i;・´ω`・人・´ω`・;i)))ブルブル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空にある視えない道と古墳の謎

雑誌HONKOWA 闇の検証で

霊能者玲子さんが気付いて まゆり先生が龍道と名付けた道?気の流れ?が

普通の人には視えないけど

空を通っている? 空に浮かんでる?

(表現に苦しむ)

上空を流れてる?ところがあるそうです。

 

元々 自然のものらしく そこにうまく乗っかると

子孫繁栄につながるらしいです。

古代の古墳は どうやら その龍道の下にあるらしいです。

 

古墳をあえて 龍道の下に作ったのか

それとも 古墳という山を築くと そこに龍道が発生するのか

それは わからないらしいです。

 

霊能者さんなら見えるらしいですが

一般人は見えません、

でも感じる事はできるらしく

 

あ ここ 気持ち良い♥

 

と 思える場所は 龍道が通ってるみたいです。

 

奈良 飛鳥の石舞台古墳は 実に気持ちが良い場所だ!

と 零感のゲゲも 感じました!

 

とりあえず

古墳を造って 自分の子孫繁栄につなげていこうというのは

古代の天皇家の呪術として伝承されていったと 思います。

 

そこで ゲゲが見つけた古墳を祀るルールなのですが。。。

 

記紀に おそらく古墳の内部の事を書いたであろう部分は

二ヵ所あると思います。

 

一つは イザナギが亡くなったイザナミに会いに行くシーンで

もう一つは

のちの大国主命が妻の父 スサノオノミコトに会いに行くシーンです。

 

イザナギの場合は イザナミに頼みごとをして 結果 怒らせてしまい 追いかけられます。

大国主命も スサノオノミコトの無茶ぶりを解決しつつ 最終的に追いかけられます

ここにヒントが隠されてると思ったのですが

 

生者は 古墳の中の亡くなった方に会いに行って お願い事の交渉をしてはいけない

です。

 

イザナギは 「一緒に戻ろう」 と直接お願いして

イザナミは 「ちょっと(黄泉の国の王に)聞いてくる」 と返事をしてます。

 

大国主命は 「おじょうさんと結婚させて下さい」とお願いして

スサノオノミコトは 「じゃあ これらをやってみろ」と答えます。

 

この二つは 古墳の中の事ではないか

と ゲゲは思うのです。

 

で ここに

古墳の中に眠る方たちを祀るヒントが出てる!

と 思ったのでした。

 

生者は 亡くなった方に直接

帰ろう 戻ろう 娘さんと結婚させて下さい

などと 具体的に誘ったりお願いしてはいけない です。

もし言うと 亡くなった方は 鬼として 外に出てこようとしてしまう!

のです!

 

古墳というのは

生者が 龍道?に対して

この古墳と亡者を捧げますから どうぞ 私達を繁栄させて下さい

お願いするツールというか 使う道具というか

そういう感じなのかも

と 思うのです。

 

で 古墳に眠る方は この世の方ではなく

魂を 根の国 黄泉の国に管理されてる

微妙?な 存在です。

 

肉体は 古墳の中にあるけれども そこに魂はなく

魂は肉体の中でなく 根の国 黄泉の国にあるという

取扱注意みたいな(意味不明)位置にいる 危うさ。。。

 

生者は この危ういバランスの中で

魂がなく鬼となっている亡者を

「古墳の中で 自由に暮らして下さい」

と もてなしつつ怒らせないように気を遣わなければいけない

そして

龍道を使いこなすために利用する。。。

というか 。。。

 

上手に表現できませんが

とにかく

 

直接会いに行っちゃダメ!

(棺の中を覗いではいけない)

 

直接交渉はダメ!

(お願いごとをしてはいけない)

 

の2点が 古墳を祀る上で重要だと思います。

 

では お願い事はどうすればいいのか。。。

 

古墳頂上? または 古墳の外から

亡者の肉体ではなく 亡者の魂のほうへ

または その亡者の上の龍道を統べる偉大なもの 神という大きな存在

に対して

お願いするのではないか?って 思います。

 

でも これは 子孫のみOK という事だと思うので

私が 古墳へ行って お願いごとをしても

全然聞く耳すら持ってもらえない と 思います。