もともと奈良辺りを支配していたのは大物主神 って気がしてきた

栃木市の大神神社を調べていたのですが

 

そういえば

豊城入彦命(崇神天皇 息子)が この下野 栃木に

大和(奈良県)の三輪山の大三輪明神を勧請したのは

おそらく 滅ぼした太平山の先住民族の魂を祀るためで(ゲゲ推測)

当たり前の事なんだろう。。。って思っていたけど。。。

 

でも どうして 大神神社を勧請したのだろう。。。?

 

と 改めて 疑問に思いました

 

記紀を読んでみると

古代の天皇家にとって 大和の三輪山というのが特別な山であることは

とてもよく伝わってきます

 

HONKOWAの霊能者玲子さんは

三輪山は「戦没者を祀っている」

と 霊視されました

 

なるほど~!!

。。。

でも 戦没者って誰?。。。

 

 

疑問は尽きなかったのですが

古事記で

国造りに悩む大国主命の前に現れる大物主大神

のところを読んでいたら

ふと気付きました

 

これって 大国主命が

国造りがうまくいかないって悩んでるのは

もしかしたら

大国主命が 戦で滅ぼした相手を祀ってないから

祟りが起きて 国造りがうまくいってないってことなんじゃないかな。。

 

と 思いました

 

日本書紀では

 

「大物主大神は 大国主神の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)であると名乗られた」

 

って書いてあるので

 

わかったようなわからないような

結局 本人なの? 別人?一体誰?!どうゆうこと?!

と もどかしく思っていましたが(^◇^;)

 

これって

 

奈良の三輪山辺り あるいは 大和周辺 か 大阪方面とかを

大物主という

大国主命とは全くの別人 偉大なる王が治めていたのではないか?

 

と 思いました

 

そして

出雲地方の大国主命(あるいはそのご先祖)と

大和地方の大物主命 とで戦が起きて

出雲の大国主命が 勝った

という事があったのだと 思うのです

 

(物部氏っって 何か関係がありそう)

 

で 大和は 出雲の大国主が支配するところとなったものの

負けた側の大物主命を うまく祀らなかったのかも知れません

 

大国主命の前に現れた大物主大神は

「吾をば大和の青垣 東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀られることを望んだとあります(奈良 大神神社 ご由緒)

 

後の世で 10代崇神天皇が 国造りがうまくいかない時占ってみたら

大物主が出てきて 我を祀れと言ったそうなので

これと同じことが 大国主命の時代にもあったのではないか

と 推測してみました

 

そして これに関連してることなのですが

大国主命の奥様で 神屋楯比賣 という方がいらっしゃるのですが

この方が 全くの謎の方のようです

大国主命との間に 息子 事代主命がいます

 

天つ神 ニニギ命派が  国つ神 大国主命に国譲りを迫った際

大国主命が 「息子に相談してみます」 と おっしゃってた

あの息子さんです

 

ゲゲは 推測してみたのですが その神屋楯比賣様は

名前に神がついてますから 相当なお方のように思えるのです

 

もしかしたら 大和の三輪山に祀られてる大物主命の娘さんか 子孫の方ではないでしょうか

大国主命は 大物主命との戦いに勝ち

そして その血を引く女性と結婚したというのは

古代では 大いにあり得るような気がします

 

事代主の命も 大和の葛城坐一言主神社にて 祀られています

出雲の神と 思われていますが

出雲を支配していたのは 父 大国主命で

息子の事代主命は 自分の母親と共に 大和で暮らしていた

と 思えるのです

 

天つ神 ニニギ政権は 大国主命との戦いに勝ち

大和を手に入れました(ゲゲ推測)

そこで 大国主命政権に代わって 大和や尾張 三重とかを

支配したのは ニニギの兄弟 天火明命だと思います

 

ニニギは 九州を支配しなければならないなので

出雲は 叔父 天ホヒ命に支配させ

大和は 兄弟 天火明命に支配させた

と 推測します

 

また系図を作ってみたいと思いますが

 

大物主命 - 神屋楯比賣 - (   ) - (  ) -

ヒメタタライスケヨリヒメ

と続くと 考えてます

 

大物主命 ー 櫛御方命 - 飯片巣見 - 建ミカ槌命 -その後13代くらい? - オオタタネコ

 

と続く系図も あります

 

天火明命 - ニギハヤヒ1世 - ニギハヤヒ2世 - ニギハヤヒ3世 -物部氏

という系図も 推測してます

 

大和の大神神社は

古代からの戦で亡くなった方達を祀っている

というのはありえると思います

先住民族の聖地だったところが 代々 大事にされてきた

とも言えると思います

 

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山幸彦と豊玉姫

古代の 妄想だか推理になるのかわかりませんが

ある日 ふと 頭の中に

 

あれの真相って あーゆーことじゃないだろうか。。

 

って 浮かぶんです。

 

なので 浮かんだことを せっせと記事にしています

数年後にたまたま読んで

 

え? 過去ゲゲ こんなことが降りてきたの?

 

と 自分でもびっくりすることが多々ありますw

 

古事記や日本書紀に書かれている 過去の天皇の事って

時代は違えど 結局は 1人の人間の人生なので

視点によって 色んなとらえ方があるだろうし

関わった人達に関しても 名前とか気持ちとか 伝え間違いがあるだろうし

絶対 本の通りだ!!

という決めつけは よくないと思うのです

 

後世の人が 良い風に推測したり 真相?を究明しようとする姿勢が

供養になるんじゃないか

と 思ったりします

 

山幸彦と 豊玉姫ですが

なぜ 豊玉姫は怒ってしまったのか。。

愛する旦那様の山幸彦と生まれたばかりの子どもを置いて

海に帰ってしまったのか。。

 

古事記では

お産を見られたから と簡単に書いてありますが

もっと 深い意味が隠されているのでは?

なんて 勘ぐってしまいます。

 

やはり これは

家の問題ではないかと思います

山幸彦の天孫族と 豊玉姫のワニ族(お産でワニになったというので和邇族だと思いました)では

ダメだったのでしょう。。

 

家同志の結びつきが決裂して

親の意向で 2人は離婚し

豊玉姫は 違う部族の人に嫁いだのだと思います

 

そして 子の養育のために

豊玉姫がよこした妹の玉依姫というのは

母違いの妹だと思います

母親が 天孫族に近い氏族なのかもです

 

姉と 姉の子どもが不憫で可哀想。。

と 玉依姫が 苦労を覚悟で決意して

家を出てきたのかも知れません

 

と こんな考えが 先日 ふと 頭の中に降りてきました

 

もしかしたら

 

いつかは 本土の大和へ上って戦って 支配地を広げるぞ!!

 

という秘めた野望?を持つ天孫族の山幸彦に

海のそばで生まれ育った豊玉姫は

心身ともに ついていけなかったのかも知れません

故郷を捨てられなかった。。とか。。。

 

 

古代も今も

結婚生活って

好きって気持ちだけじゃやっていけないものなんですねぇ。。。

倭氏族 倭迹迹日百襲姫命と ニギハヤヒ始祖の物部氏 伊香色謎命の系図

系図作りが楽しいです

わくわくしながらワード画面に向かっています♪

 

倭迹迹日百襲姫に連なる

神武天皇の頃の 弟師木 からの系図を作ってみました

弟師木の息子が 師木縣主 波延(しきのあがたぬし はえ)です

系図の左側です

 

伊香色謎命は 両親から 書いてみました

系図の右側です

 

 

 

以前にも考察してみましたが

こうして系図を作って マジマジと眺めて

両家? というか 比べてみると

モモソ姫の先祖は 今でいう 地元の県知事クラス出身で

伊香色謎命(いかがしこめのみこと)は 略してますが

父方は 始祖がニギハヤヒという 天皇家から枝分かれしたお方です

 

どっちが上 とか表現するのは

優劣をつけるようで あまり触れたくないですが^^;

この頃の 古代にも

先祖が誰々 という出自争いみたいなものが

あったんではないだろうか。。。

と つい勘ぐってしまいます

 

系図を作っているうちになんだか見えてきたのが

天皇位の継承にからむストーリーです

 

孝元天皇が亡くなり 開化天皇が跡を継ぐことになり

良い皇后を ということで

元 孝元天皇妃の伊香色謎命 が選ばれたと思うのですが

これには 伯母であり 孝元天皇皇后の鬱色謎命が強く

「おまえ ぜひ うちの家(物部氏)のためにも 息子と結婚しておくれ」

と勧めたような気がします

 

多分おそらく 伊香色謎命はサイキック能力もあり

天皇皇后として最適な女性だったのだと思います

そして モモソ姫の倭一族に対抗するためにも

自分の息子に力強い妻を持たせたかったような気がします

 

ほんとに系図を書くのって 面白いです

いろんなストーリーが 頭の中に 生き生きと浮かんできます

 

今回 系図を作るにあたって

またまた 気になる女性を見つけてしまいました

伊香色謎命の母 高屋阿波良姫

伊香色謎命の父 おおへそき の母 坂戸由良都姫 です

 

たかやあわらひめ

 

さかどゆらつひめ

 

とお読みするのかもですが

 

なんて素敵なお名前~~~

 

と惹かれてしまいました♥

 

飯野の眞黑比賣 考察 作ってみました ゲゲ系図

以前に考察した 飯野の眞黑比賣です

飯野の眞黑比賣(古事記)の謎 隠された?姫 卑弥呼系列?

 

↑ この記事とは やや違う場所に 眞黑比賣をあてはめてみました

 

 

若建吉備津日子の妻になった という点では変わらないのですが

父を 讃岐 飯野山の飯日子と考えました

(名前は 神社のご祭神からの推測です)

飯神社のある辺り飯野を治めていた 讃岐国の飯依比古命の子孫と 推測しました

 

前回も 書きましたが

古代ですので

親子と言っても 年齢が 長子と末子では かなり離れていることを考慮しつつ

その天皇の時代に活躍したと思われる同世代の方達が 横に並ぶように

作ってみました

 

 

皇族だったら 男女15歳位で 最初の子どもが生まれるでしょうし

70歳を越えた男性が 若い女性を妻にして お子さんをもうけることも充分ありえる

と仮定して 推測してみました

 

景行天皇妃 訶具漏比賣も 私が推測する場所に

入れてみました

 

古事記に書いてある親子関係 婚姻関係を読んだ場合

どうにも疑問が残ってしまうので

やはり 眞黑比賣 訶具漏比賣という方は サイキック能力に秀でた卑弥呼グループの方だと思うのです

意図して 隠されたのでしょう

 

後の時代の私達に

「文章を写し間違えたに違いない」

と 軽く思わせつつ

訶具漏比賣に連なる香坂王 忍熊王の出自をあいまいにして

地位をおとしめ

この2人には 皇位を継ぐ資格はない、応神天皇の方がふさわしい

と 思わせる意図もあったと思います

 

参考文献 画像解析による古墳墓碑 池田仁三氏 青林堂

HONKOWA 闇の検証 寺尾玲子 朝日出版社

 

 

 

 

天皇家系図 宮内庁HPの系図を見てみました

結構そこそこの期間 独自に 天皇家の事を調べていますが

去年 初めて!

宮内庁のHPで 天皇家の系図を見てみました(^◇^)(遅)

 

なんと びっくりしました!

。。。

いや 驚くことではなく

むしろ 当たり前の事ですが

 

武烈天皇の後 継体天皇が皇位を継いだので

応神天皇の息子で 継体天皇の祖である 4代前の稚野毛二派皇子

のお名前が書いてありました!

 

これは

仁徳天皇の子孫は 武烈天皇で途絶えたが

腹違いの兄弟の稚野毛二派皇子の子孫は今でも続いてる

ということになります

 

 

 

もしかしたら 以前 どこかの本で読んだかもの史実ですが

改めて 宮内庁の系図で確認してみたら

なんだかまじで うわ~ と思いました(どういう表現)

 

系図で見ると 仲哀天皇から応神天皇へ皇位が移り

そして 結果的に 簡単に表現すると

応神天皇の次から枝が二つに分かれる形になっています

 

当時本当にそういう名前で呼ばれていたのかわかりませんが

今となっては

稚野毛二派皇子(若沼毛二俣王)の〝ふたまた〟のお名前が

何かを暗示してるようで ちょっと怖いです

後世の人が 付け足したのかな?

 

仁徳天皇の子孫は武烈天皇で終わりましたが

その上の世代で考えていくと

仁徳天皇の祖母 神功皇后の系統は今に続いてるという事になります

 

以前 皇極天皇を調べていた時

どうも 神功皇后のにおいがすると感じました

皇極天皇も 神功皇后からずっとつながっていることになります

 

さらに その上の系図を見てみると やはり

日本武尊は強い!!

となります

日本武尊の父 景行天皇

景行天皇の祖父 崇神天皇

天皇家初代 神武天皇

の流れ 最強です!

 

稚野毛二派皇子の系図を ゲゲ推測図で 作ってみました♥

たどっていくと

来熊田大酒主(くくまたおおさかぬし)

息長田別王(おきながたわけおう)

という方にたどり着きました

 

稚野毛二派皇子の母は 息長眞若中比賣です

そして息長眞若中比賣の父は杙俣長日子で 母は不明です

 

杙俣長日子の父は息長田別王で 母は不明です

杙俣長日子さんは 日本書紀の河派仲彦と同一人物と考えられているそうです

 

息長田別王の父は日本武尊で 母は不明です

 

ということで 色々史実を調べて それに推測を加えてみました

 

史実では

日本武尊の息子の仲哀天皇は

来熊田大酒主(くくまたおおさかぬし)または 来熊田造(くくまたのみやつこ)

という人の娘 弟媛 を妻にしたそうです

 

弟…媛・・・

弟・・・

 

弟というならば 当時は妹…

この弟媛さんには お姉ちゃんがいるのではなかろうか。。。

(当時は 兄媛 えひめ と呼びます)

 

妹が仲哀天皇に嫁ぐ位なのだから

姉もおそらく 仲哀天皇か天皇の兄弟クラスに嫁ぐはず。。。

と ゲゲは考えました

そこで 仲哀天皇の母違いの兄弟 息長田別王に嫁いだのではないだろうか

と 推測した次第です

 

古代では よほどの事がないかぎり 女性の名前は正史に残らないそうです

そして しかも 若くして亡くなった場合などは 特に残らないそうです

 

兄媛さんは お若い時 杙俣長日子さんを産んですぐ亡くなられたのではないか

と ゲゲは 勝手に推測してみました

 

そして そしてですが

杙俣長日子を 来熊田大酒主の孫として系図に当てはめた理由ですが

。。。

名前が 似てるんです!

 

くくまた。。。くくまた。。。。

くく…また。。。

う~ん。。。どうにも くくが言いづらい・・・

。。。

くくーまた。。。

。。。

くぅまた。。。

。。。

→ くいまた!!!

。。。

やや 強引かもしれませんが。。。

 

そして もう一つ ネットで調べたのですが

大阪の 杭全!!

読めないので有名な地名らしいですが

くまた と読むそうです

 

くいを またする という漢字で

どうやら 道か川の二股にわかれるところに杙を打つという意味らしいです

 

 

杙俣長日子の くいまた と 同じ意味に見えます

 

さらに この3人↓ を3世代として考えたのにも理由があります

祖父 来熊田大酒主

娘婿 息長田別王

孫 杙俣長日子

 

どうも 大阪の杭全地区に住んでいたのでは?

と 調べれば調べるほど 思いました

 

来熊田大酒主 は 普通に読むと熊が来る田 大きい酒主(その土地をおさめる人)

です

もしかしたら 熊が来るのではなく

くいをふたまたのところに打って整備して

くいまた という名前を この漢字に当てはめたのかもしれません

そして おおさかぬし が 大阪 という地名になっていったのかも

と推測しました

 

息長田別王は

息長川 または 息長氏に関する土地に入ってきたお婿さんで

(都会から地方に入る皇子を わけおう という)

ネットで調べたところ 意見は分かれるそうですが

息長川という川が流れてるそうです

 

 

杭俣長日子は

先ほどの推測で おじいちゃんの くくまたと 名前が似てるという点と

そして この長日子さんも

自身の代で 川が二手に分かれるところに杙を打って整備した

ということもありえると思いました

 

3世代をこのように考えて 系図に当てはめてみたら

なぜだか とてもしっくりとしました

 

また いつか 考えが変わるかも知れませんが

その時は 新説をブログに書こうと思います

 

 

それにしても 宮内庁HPの系図に載ってる稚野毛二派皇子

母が 息長眞若中比賣 ということで

息長帯比賣=神功皇后

 

そして 以前に考察した

息長水依比賣(おきながのみづよりひめ)の謎

の 息長水依比賣 様も

息長という姓? 名前?を持つお方。。。

 

謎?の息長一族は

系図のそこそこに隠れていらっしゃいます。。。

 

現代では

「息長」というのは 忍者用語だと知って

少々驚きました

息を短く吸ってから 細く長く吐く呼吸法だそうです

 

細く長く。。。

 

なんか 意味深~~~。。。。。

 

 

今日 思いついて

初めて ワードで系図を作ってみましたが

意外と楽しくて

はまってしまいました

きれいで簡単 ♥(*^^)v

 

↓ 昨夜 ペンタブで手書きで書いたら こうなりました

(PД`q)゚・*:..ヒ・・・ヒドイ.

 

 

 

 

八角墳の謎 中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足による蘇我氏への対抗呪術

大型古墳の終末期に 八角形の古墳が出現します

今までは

進化したんだね~

と 科学の進歩みたいに軽く考えていましたが

先日

もしかしたら 八角形という形は

天智天皇サイドが 蘇我氏に対抗しようと取り入れた呪術なのかも!

と 気付きました ( ̄□ ̄;)!! ∑( ̄□ ̄ノ)ノ

 

最初に登場した八角形の古墳は 舒明天皇陵だそうです

おそらく

次の天皇であり妻の皇極天皇と 息子である中大兄皇子が

神事・祭祀のエキスパート 中臣鎌足に相談し

蘇我氏対策& 自分達の子孫繁栄に効果があるようにと

八角形の形を取り入れたように思います

 

当時の蘇我氏は 蘇我蝦夷の時代で

とても繁栄していたそうですが

私が思うに それは吉相の土地に造られたお墓効果だと思います

 

蘇我家の馬子(蝦夷の父)の墓と伝わっている石舞台古墳を訪れた時に感じましたが

そこは とても気持ちが良い場所でした

いるだけで 体中に良いパワーをもらえるような

不思議な何かを感じられました

 

墓というのは

古代中国の風水思想で

良い土地に作ると子孫が繁栄するという

最強のパワースポットだそうです

 

皇極天皇 中大兄皇子 中臣鎌足たちは

蘇我氏の勢いがこのまま続けば

天皇家を上回る力を持つ恐れがある

と脅威を感じ かなりの危機感を抱いていたと思います

 

蘇我氏が代々受け継いできた仏教パワーも

恐れの対象となったのかも知れません

(参考文献 HONKOWA 寺尾玲子の真 闇の検証

 

そこで 古墳を八角形にして

これ以上蘇我氏の力が大きくなるのを阻止して

自分達の子孫が繁栄するようにと

呪術を施したのだと思います

 

おそらく 舒明天皇の古墳を造る段階で

中大兄皇子 中臣鎌足は

蘇我宗家を滅ぼす!

蘇我蝦夷・入鹿親子を倒す!

と決めていたのではないでしょうか。。

そんな気がします

 

そして 八角形の古墳の効果か

乙巳の変で 蘇我宗家が滅びました

 

その後 皇極天皇から孝徳天皇に代わり

孝徳天皇の後 皇極天皇が重祚して斉明天皇となりました

 

斉明天皇が亡くなった後 中大兄皇子が天智天皇となりました

中臣鎌足が世を去り

その後 天智天皇も 亡くなりました

 

天智天皇の古墳は

天皇位を継承した息子の大友皇子が造営したのでしょうが

八角形だそうです

 

そして 壬申の乱が起こり

天智天皇の弟 大海人皇子が 大友皇子から政権を奪い

天皇となりました

 

その後 故中臣鎌足の妻 鏡女王が亡くなり

墓は 舒明天皇陵のすぐ隣りに造られました

 

親子でもないのになぜ?と謎なのですが

(あるいは血縁関係があったのか)

もしかしたら

舒明天皇陵の八角形のパワーを持続させるために

鎌足の関係する談山神社からの中継地点ということで

そこの場所に造ることにしたのかもしれません

 

鏡女王は もともとは 天智天皇の妻でしたから

舒明天皇は 元夫の父ということになるので

多少の縁はあるわけです

 

鎌足亡きあと 息子の藤原不比等が

天皇家の発展を祈願しつつも

同時に

自分達藤原氏の勢力を伸ばすために

何かこう仕掛けているのではないかと 思います

 

大海人皇子が天皇となった後 中臣鎌足の息子 不比等が

天武天皇(大海人皇子)・持統天皇(うのの皇女さらら)に

重用されて ものすごい力を持つようになります

 

そして 天武天皇が亡くなると

八角形の古墳に埋葬されます

 

これは 舒明天皇~天智天皇の古墳の形を取り入れて

自分達の子孫を繁栄させるために

八角形を選んだのだと思います

 

天智天皇から弘文天皇(大友皇子)に伝わった天皇家独自の視えない何かが

天武天皇側には伝わらなかった

(HONKOWA 寺尾玲子の真 闇の検証)

ため

古墳を八角形にして 呪術力を高めたのかもしれません

 

天智天皇の息子 弘文天皇から

皇位は 天武天皇に移りましたが

それも 約100年で 称徳天皇の薨去により終わりました

 

天武天皇・持統天皇の八角形の古墳の効果は

天皇が代々 代わっていく中

途中で切れてしまったのかもしれません

 

もしかしたら

天智天皇が舒明天皇の古墳を造った時のような

強い想いと呪術力が

天武系の天皇たちが代々子孫に伝えていった呪術に勝ったのかもしれません

 

あるいは やはり 政権を奪った側として

天皇位を続けていける視えない何かが足りなかったのかもです

 

天智天皇 死後約100年後

天智天皇の孫 白壁王が光仁天皇となり

天智系が復活しました

 

そして 現在

天皇家も 藤原家も 見事に存続しています

古墳って 先人たちがかけた呪術?で

つくづく 計り知れない謎があると思います

 

そして やはり

天智天皇と中臣鎌足のお二人は

ただものではない!!!

と ひしひしと想うのであります

ガクガク(((i;・´ω`・人・´ω`・;i)))ブルブル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かごめかごめの唄の謎 日本武尊編

ちょっと前のHONKOWAを読み直していたら

玲子さんの霊視で

「囲ってる」

というワードがありました。

 

そのワードを見た途端

ゲゲの頭の中には 以前訪れた大阪堺の

大鳥大社と4つの摂社 が浮かびました

 

続いて 頭の中に なぜだか

かごめかごめの唄が浮かびました

 

かごめかごめの唄は 童謡ですが

その歌詞から

何かの秘密の鍵を示唆する内容ではないか

という説があります。

テレビの怪奇特番でも取り上げられたことがあります

 

日光東照宮の徳川埋蔵金のありかを示しているとか

他にもいろいろな解釈がある 不思議な謎を秘めたわらべ歌です

 

かごめかごめの唄って

「鳥」という言葉が出てくるし

もしかしたら 大鳥大社に祀られてる日本武尊の唄かも。。。

と ふと思いました。

 

大鳥大社には 近くに 4つの摂社があります。

大きい神社の周辺に小さな摂社があるというのはよくある事なのでしょうが

なぜだか ゲゲには

 

大鳥大社がその4つの摂社に囲まれてる。。。

もしくは

4つの摂社が大鳥大社を囲ってる。。。

 

と感じられて感じられて仕方がないのです。

 

かごめかごめの唄を

子どもの頃覚えた通り 口ずさんでみました。

 

かごめ かごめ

かごの中の鳥は いついつ出やる

夜明けの晩に 鶴と亀がすべった

後ろの正面 だあれ~

 

私が住んでいた地域では

かごめかごめ遊びとは

何人かが手をつないで円を作り

その真ん中に 目隠ししてしゃがんでいる子がいて(かごの中に入っているように)

その子の周りを 時計まわりに歌を歌いながら ゆっくり動いて

歌が止んだ時にぴたっと止まり

真ん中の子が 自分のま後ろにいる子を当てる

というものです

 

当たると

その子は かごから出られて円のメンバーになれて

反対に 今度は

当てられた子がかごの中に入って目隠しをします

 

当時は何も考えずに遊んでいましたが

今 漢字をあてると 「囲め 囲め」ということだと思います

なんだか 人に目隠しをして 大きいかごの中に閉じ込めてる

というイメージがあります。

 

私の 勝手な解釈ですが

この歌は

かごの中の鳥が出て 鶴と亀のところに飛んでいこうとするから

決して外に出してはいけません

その間に 鶴と亀は滑って再起不能になりました

内緒ですが 鶴と亀を滑らせた犯人は 後ろの正面にいますよね

 

という意味なんだと思えて仕方ないです

 

これを大鳥大社の日本武尊に当てはめてみると。。。

 

囲め 囲め

かごの中の鳥(日本武尊の魂)は

いついつ出やる

夜明けの晩に 鶴と亀が滑った

後ろの正面 だあれ

 

。。。

しばらく考えていたら

頭の中に

「神功皇后」…

と浮かびました

 

鶴と亀って・・・

神功皇后が滅ぼした かご坂王と押熊王…

もしかしたら 2人の母親・・・ 母親が出た家の一族・・・

さらには もっと拡大解釈すると成務天皇や成務天皇の母方の一族・・・

そして さらには 仲哀天皇の母親の一族…

 

…神功皇后にとって

今までのすべての政敵たち?・・・

 

次々に 浮かんできました。。。

 

神功皇后の子 応神天皇が天皇の位につくことができたのは

実は 神功皇后と家臣の武内宿禰が起こしたクーデターで

王位継承権を持つ かご坂王 と 押熊王 を滅ぼしたから…

 

という説があります。

 

ゲゲの推測ですが

景行天皇から 神功皇后までの間

一番子孫が繁栄して 長期間 実権を握れた勝者は

神功皇后

ではないかと思うのです

 

景行天皇の息子である日本武尊は 武勇に優れていたにも関わらず

東征のため 都へ戻る前に亡くなってしまいます。

生きていたら おそらく 次期天皇だったと思います。

そして 景行天皇の正妃であった日本武尊の母(播磨出身)も亡くなりました

(ということは 母方の一族=外戚は 天皇家の家臣としては 多少なりとも力を失ったという感じになると思います)

 

景行天皇の次に天皇になったのは 成務天皇です

母親は 八坂の入媛(父は八坂の入日子=崇神天皇の子 八坂は京都?)です

 

そして 次の天皇は 成務天皇の子ではなく

日本武尊の子 仲哀天皇でした

(ということは 成務天皇の母の一族は 今までの権力を多少失ったのかも ということになります)

 

仲哀天皇の母は 垂仁天皇の娘で 名前は両道(ふたぢ)の入媛(京都?)です

 

そして 仲哀天皇は 早くに亡くなり(同時に 母方父方の権力も弱まり…)

おそらく それ以前に

仲哀天皇の最初の妻(大中津媛 兵庫?)も亡くなっていて…

妻の父方母方の権力も弱まって…

 

ここまでの間に 天皇が次々代わり

そして 同時に 天皇の母 天皇の妻 も代わって…(当たり前ですが)

さらには 天皇の母の外戚 妻の外戚

と 推測でしかないですが

天皇をとりまく家臣の力関係が

次々変わっていったのです。

 

記紀では この頃の天皇家の家臣団についてはあまり詳しく書かれてありませんが

後の世の 中臣家 蘇我家の争いとか見てると

古代でも

大和の天皇家周辺では 天皇の母親の出身家による権力争いが

あったのではないかと思っています。

 

 

そして 仲哀天皇の死後

戦が起こります。

 

仲哀天皇の後妻(神功皇后 父は開化天皇曾孫)と

仲哀天皇の最初の妻の子ども達が(かご坂王・押熊王 兵庫?)

争う事になり

かご坂王 押熊王は 負けて 亡くなりました

 

この戦いの結果

勝って残ったのは 景行天皇の直系の仲哀天皇ではなく

仲哀天皇の妻 神功皇后でした

景行天皇が築きあげた大きな権力が

開化天皇曾孫の娘という 直系からかなり遠い皇后(=息長一族)に

移行したのです。

 

仲哀天皇の最初の妻 大中津媛は 祖父が景行天皇なので

血統からいえば 神功皇后よりも上になりますが

神功皇后は

自分よりも血筋の良いかご坂王 押熊王を滅ぼして

強大な権力を持ちました

 

そして

自分の息子が天皇位を獲得した後(応神天皇)

その政権は安定した形で 仁徳天皇へ続いていったのでした。

 

ゲゲ訳

 

 

囲め 囲め

かごの中の鳥はいついつ出やる

世空けの晩に 鶴と亀が滑った

後ろの正面 だあれ~

 

なぜだかわからないのですが

神功皇后が一番恐れたのが

景行天皇の命によって大鳥大社で祀られている日本武尊の魂

だったのではないか…

と思えて仕方ありません。

 

おそらく 日本武尊は

あれだけの偉業をやってのけたのに 都に帰れず

望郷の念を持ちつつ 苦しみながら地方で亡くなった

という事から

人々にとって 恐れる対象になってしまった…

と思います。(私は尊を大好きなので 〃ω〃

怨霊という表現は使いたくないです テヘペロ^^;)

 

なので 尊の3つもある古墳はすべて

巻向ではない場所に造られたのかもです

まるで 巻向の地に尊の魂は入れさせない

としてるような意図を感じさせます。

そして 最終的に 4つ目として 堺に 神社を作って

魂を祀らせました

 

理由はわかりませんが

3つの古墳だけでは何かが収まらず 神社も必要だったのか…

誰かが 神社で何かに使うためだったのか…

 

それとも 一つの古墳と一つの神社が造られた後

長い時間をかけて

それぞれ違う人たちが 2つ目と3つ目の古墳を造っていったのか…

(ゲゲも 過去記事で 色々考察してます)

 

崇神天皇 垂仁天皇 景行天皇は 大和の磯城郡で 政治を行いました

(ゲゲは この天皇3代で巻向に大きい都を作っていったと思っています)

 

日本武尊の腹違いの弟 成務天皇は

景行天皇の晩年

大和からかなり離れた近江へ遷都しました

これは

日本武尊がかつて住んでいてなじみのある纏向の都から

あえて離れたのだと思います。

 

ゲゲの推測ですが

おそらく 成務天皇は 自分が天皇に即位する前

老衰で体が弱っていた(想像です)景行天皇を 無理矢理説得して

巻向から近江へ連れていったのではないかと

思うのです

 

後世 極端な遷都として

乙巳の変で 蘇我氏を滅ぼした後 孝徳天皇が難波へ遷都したのが有名です

これは 飛鳥の地にあふれる蘇我の怨霊から逃げるためだったのではないか?と言われています

 

それと同じように もっと以前 成務天皇は

日本武尊の魂から逃れるために 遷都したのだと思います。

もしかしたら 孝徳天皇は成務天皇の真似をしたのかもしれません

 

そのように強力な日本武尊の魂ですから

日本武尊の息子の妻である神功皇后は

何はともあれ 義父の怒りを 相当恐れていたのではないかと思います

日本武尊の孫(夫の先妻の子ども2人)を滅ぼすために戦をしたのですから。。

 

記紀に 神功皇后の神頼みが

かなりたくさん出てきますが

日本武尊の祟りを恐れていたからではないか

とも思えます。

 

ゲゲの推測ですが

大鳥大社の回りにある4つの摂社は

神功皇后が 尊の魂を大社から出さないために

社を建て 何かの術をほどこして 囲った跡なのかも。。。

と思ったりします。。。

 

そして

民衆は それを知っていたのかもしれません。。。

でも はっきり言えば

古代の事ですから おそらく だめでしょう。。

 

なので 代々 内緒で口伝している間に

いつしか わらべ歌となり

かごめかごめの唄として 後世 語り継がれていったのかも。。。しれません。。。

 

ゲゲ訳

 

囲ってる 囲ってる

日本武尊の魂は

子孫を助けるため いつか 社から出そうだね

出てこないように 囲ってるんだね

仲哀天皇が九州遠征で亡くなって 天皇位が空いて暗闇だった時

大和を守っていたかご坂王と押熊王が失脚したね

2人を失脚させた犯人は 後ろの正面にいるよね

 

 

 

 

 

地図の上でのことですが

大鳥大社の後ろを ずっと北にたどって行って

東の方を振り向くと

正面を海側に向けた ○○大社があるんです。。。

 

なんか怖いので

はっきり書くの やめておきます (;*^^)v