大関 増裕 - 幕末の陸海軍を率いた黒羽藩主

先週 県立博物館へ 宇都宮城の講演を聴きに行って
そうだ!大関氏の 企画展も 平成16年に拝見したんだ~
と 思い出しました
 
確か 新聞で 大関氏の企画展 あと少しで終了~
という文字を見かけ 
 
えっ 誰? おおぜき ますひろ?
幕末の陸海軍を率いた?
勝海舟とも 親交があった~?
1万8千石の外様大名? 黒羽藩(栃木県 宇都宮の上のほう)の 若き お殿様?
幕末の動乱と謎の死?
 
はてなマークだらけの方だ~~
 
初めてお聞きする名に 驚き 幕末なら 土方さんと何か関係ある?
と そっち優先で あわてて 企画展を見に行きました
 
すごい~お方でした~ 
土方さんもすごいが この人 才能ある 超エリート官僚
西洋砲術を学び 蘭学 や 英語も 勉強 
すらすら 横文字書いてるんですよ~
お顔も 俺様的な 小顔の 目がきりっとした いい男~
フランス式の海軍軍服姿で 総髪の 写真も 残っているのです~
 
陸軍奉行に就任したり 若年寄(海軍副総裁)になって 海軍奉行も兼務しています
かっこいい~ 若いのに~
 
ところが そんな すばらしいお方なのですが。。。
慶応3年 1867年 12月9日 彼の30歳の誕生日
帰藩して 領地 黒羽領 金丸の 山林で遊猟中
「全く御自分の御鉄砲に御相違もこれ無き事」の銃の暴発で 
「此の上も無き御急所」 左頬の耳の脇から右耳の上を 弾が貫通し、
お付の者が気付いた時は もう 脈もなかったそうです
・・・・・・・・おりしも 王政復古の大号令 発布の日でした
 
彼の死後 彼が 家中・町民・農民 に命じていた 御用金や献金が 中止となっています
事故死?自殺?暗殺? 謎の死なのです。。。。。
 
うっそ~ 栃木にこういうお方がいたなんて~
企画展を見なければ 知らなかったよ~
残念ながら 土方さんと 接触があったかはわかりませんが
お互いの存在は 知ってましたかね~
 
大関増裕 年表 (栃木県立博物館発行 大関増裕関係年表より 抜粋)
 
天保8年1837年12月9日  遠洲横須賀城に生まれる(西尾忠宝の二男)
嘉永6年1853年 6月    ペリー 浦賀に来航
安政元年1854年       このころから 西洋砲術を学ぶ(16歳)
   3年1856年       蘭学を学び始める
文久元年1861年       大関家の養子となって 家督を継ぐ(23歳)
   2年1862年4月8日  講武所奉行となる(24歳)
                  異例の人事 江戸落書
               外様にて奉行なすの(那須野)は珍らしし、横綱を張る肥後の大関 
          10月22日 将軍家茂の上洛随行で 旗奉行の他に槍奉行を命ぜられる
          12月 1日 陸軍奉行に就任、講武所奉行を兼務
             20日 公務多忙のため、将軍家茂上洛の随行を免ぜられる(25歳)
   3年1863年3月 4日  将軍家茂、将軍として230年ぶりに上洛
             15日  病気を理由に 幕府公職を辞す
           5月27日  初めて 黒羽に入部する  
慶応元年1865年7月8日   海軍奉行に就任  
           12月     アメリカ製軍艦 富士山丸を受領
   2年1866年 7月20日  将軍家茂が大坂で死去
            8月 4日  若年寄格となる
           12月 5日  慶喜 第15代将軍となる
   3年1867年 1月     アメリカに派遣していた小野友五郎に
                   軍艦甲鉄丸を購入注文させる(29歳)
            1月19日 若年寄(海軍副総裁)となり、海軍奉行を兼務
            4月10日 神奈川についた 開陽丸を視察(勝海舟同行)
            9月12日 海軍総裁 稲葉正巳とともに軍艦開陽丸に試乗
             10月14日 慶喜 大政奉還を上表、翌日 勅許
             12月 6日 洋式軍装の隊列を組んで 黒羽に入る
                9日  黒羽領 金丸で 遊猟中に急死(30歳)
                      王政復古の大号令
慶応4年1868年 1月3日    戊辰戦争始まる
 
黒羽藩は 新政府軍に属し 会津征討を命じられ 奥州へ出陣します
増裕 が 生きていたらね~ 絶対 幕軍だと思いますが。。。
やはり 城の中の人間に 暗殺されたのでしょうか。
亡くなったときに彼が着ていたコートが 展示されていました
左胸のところが 切れているのです。。劣化によるものとは思えません~
ほん怖の玲子さんなら きっと視えるのに~
コートは 何かを訴えていたようなのですが 私は感じることができませんでした
ごめんなさい~
 
狩猟中 亡くなったなんて 天智天皇を ほうふつさせるものがあります
心の中が もやもやします
黒羽へ お墓参りにいきたいです。。
東京都 功運寺にも 墓所があるそうです
 
参考文献 平成16年度企画展
       幕末の陸海軍を率いた黒羽藩主 大関増裕
       -動乱の幕末となぞの死ー
       企画・編集 栃木県立博物館
       発行  栃木県立博物館友の会
       発行日 平成16年10月3日
                   
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大関 増裕 - 幕末の陸海軍を率いた黒羽藩主」への2件のフィードバック

  1.  左胸のところが切れていたコート・・・。
     スピリチュアルな力があれば、何かみえてしまうかもしれないです。(^^;)
     
     以前、函館山の碧血碑に花束を持ってお参りした時、私は何かを持ち帰ってしまったようで、ホテルで夜中にベッドで眠って横になったまま、「うー、うー」と唸りながら壁をドンドンとゲンコツで叩いていたことがあったそうです。目撃した家族は、「絶対、碧血碑から何か連れてきたんだよー。」と言うのです。ひええええ・・・・
     確かに、碧血碑とその周辺のうっそうとした、いかにも何かいそうな、怖い雰囲気は、ありえるーと思いました。でも、「また来ます。土方さん・・・」と心でつぶやきながら碧血碑を後にした私は、きっと、また行くだろうな。

  2. お登勢さん>>
    謎が多い 大関さまです~ ほんとうに視えたらいいと ちょっと思います~いっぱい視えたら怖い~
     
    うわー碧血碑 お参り後 そのような事が~!すすごい!いえっ 大変でしたね~
    ご家族びっくりですね~ お登勢さん やさしそうだから ひょいっと ついてきたのかもですね! 
    碧血碑 私も 一度 19歳の時ですが 行きました~ 静かで そういう雰囲気でしたよね な~んか 空気がね~。。。
    買って来た絵葉書 これ人の顔?ていうのが 映っていて 後輩と 大騒ぎした覚えがあります~^_^;
    11月の北海道 壁血碑もコースですか~ もし 行かれたら よろしくです~
     

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